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もう二度と会えない。
名前すら知らず、探すことも許されない。
私の気持ちはどこにも向かうことができなかった。





なに泣きそうな顔して笑ってんだ















あれから数日。
彼がこの部屋にいたのがもはや夢だったのではないかという気がした。
現実だったと教えてくれるのは唇に残る感触だけ。
それ以外は何一つ残っていなかった。
毎日部屋のドアを開けるたび、彼がいるかもしれないと思う。
そして開けた瞬間その期待は裏切らせる。
後、何度落胆すればいいのだろう。
人を殺した人だと言うのに。

恋をするなんてどうかしている。



その日は雨が降っていた。
傘は持っていなかったが、小降りなので大丈夫だろう。
私はバイト先の花屋から走り出す。
もう21時が過ぎていた。
夕食を作るのが億劫だな。
近くのデパートでお惣菜を買ってアパートに向かう。
もう待ってもムダだとわかっている。
彼とは住む世界が違いすぎる。
そう、わかっているのに。
今日もまた期待している自分に呆れてしまう。

「え?」
「遅ぇじゃねぇか」
夢を見ているのだろうか。
「雨に濡れてんな。
 早く着替えた方がいいぜ」
彼が部屋の前にいた。
「どうして?」
泣いたらダメだ。堪えなくては。
「来ないほうがよかったか?」
彼はそう言って笑う。
私は首を横に振った。
「泣いてんじゃねぇよ」
夢でも幻でも良かった。
彼が目の前にいる。
理由など何でも良かった。

「シャワー貸してくれ」
部屋に入るなり彼が言った。
よく見れば彼はずぶ濡れと言ってもいいほど濡れていた。
私は軽くバスタブを洗ってから彼にシャワーを勧めた。
その間に濡れた衣服を替え、夕食の準備をする。
まさか彼に買ってきたお惣菜を出すわけにはいかない。
パスタを作り始めた。
「いい匂いだ」
トマトたっぷりのパスタとサラダ。
「簡単なものしかないんだけど」
「構わねぇよ、腹減ってるからな」
彼が私の作った料理を食べている。
昨日までは落ち込んでいたのに、今は天にも昇る気持ちと言ってもいい。
「何見てやがる」
そう言って彼が私を見た。
はっとした。
「ちゃんと食え。
 じゃねぇと体力持たねぇぞ」
「う、うん」
言われたものの、私は気もそぞろだった。
名前は教えてもらえないけど。
この近くに住んでいるんだろうか。
年齢は私よりもずっと大人に見えるけど、いくつなんだろう。
落ち着いているし、スーツ姿が様になっている。
こんな美形が町を歩いていたら目立つだろうな。
あの出来事がなく普通に出会っていたら、きっとモデルか何かだと思うだろう。
「あの」
「プロシュート」
「え?」
「オレの名前だ」
驚いて声が出ない。
「知りてぇんじゃなかったのか?」
「う、うん!
 私は・・・」
だったか?」
「何で知ってるの?」
「んなことは調べりゃすぐにわかる」
そうなんだ。
私はあれだけ聞きまわって、何もわからなかったというのに。
それにしてもどうして私を調べたんだろう。
「食い終わったんなら片付けるぞ」
「うん」
腑に落ちないながらも、彼が皿を持ってキッチンへと向かうので、私もそれに倣った。
「あ、いいよ。洗うから」
プロシュートが洗い始めたので私は慌てた。
「お前はシャワー浴びてこい」
「でも」
「いいから行ってこい」
悪い気もするが、引かない雰囲気だったので私はバスルームへ入った。

もしかしたらこうしている間に彼はいなくなっているかもしれない。
シャワーを浴び終えた時、ふと思った。
期待してはいけない。
名前が聞けただけで良かったじゃない。
本名でないかもしれない、それでもいい。
彼が唯一教えてくれたことだから。
彼がいなくても動揺しないよう覚悟を決めてバスルームから出ると、彼はテレビを見ていた。
私の部屋には彼の着れるものはなかったので、半渇きのスーツのままだ。
上着だけはハンガーにかけて乾かしてあった。
「女ってのは何だって風呂が長ぇんだ」
笑いながらそんなことを言う。
「帰っちまうぞ」
「ご、ごめんなさい」
私は慌てた。
この夢のような時間が終わってしまう。
それだけは嫌だった。
「冗談だ」
彼は私の手を掴むと、抱き寄せた。
「お楽しみはこれからだろ?」
「え?」
彼の言っている意味がわからない歳ではない。
でも本当なのだろうか。
真偽を確かめようと目を覗き込む。
だがその私の目に彼のキスが落とされる。
やがてそれは唇へと移った。
本当に?
これは現実なの?
キスが終わると彼が微笑んだ。
「なに泣きそうな顔して笑ってんだ」
嬉しくて、また涙が溢れそうだった。
こんな素性も何も知らない男と。
ただ数回あっただけの男と。
犯罪者であろう男と。
自分がおかしいと思った。
それでも彼のものにしてほしいと願った。
彼は私を抱いて、ベッドまで運んでくれた。
自分がまるで映画の中のヒロインにでもなった気がして頬が赤くなった。
でも彼は涼しい顔をしている。
きっと慣れているのだろう。
そして忘れられない夜が始まった。


朝、起きると彼はいなかった。
彼のいたところはもう冷たくなっていた。
だけど私の体に残る彼の感触全てがまだ熱を持っている気がした。
この熱が冷めるころ、またきっと辛くなる。
それでもよかった。
昨日の夜、私は確かに幸せだったのだから。



5.なに泣きそうな顔して笑ってんだ(強引に慰める彼のセリフ:1)
完了:2014/7/10